Article
0 comment

康司の遠征日誌 19

7月15日が釜山に渡るラストチャンスだった。僕自身仕事のキャンセルを続け遠征の継続をしていたのだが、どうしても落とすことのできない仕事の期限が 迫っていた。マイクのほうも所属する英会話学校の社長から頻繁に電話がかかっていた。「これ以上契約先に迷惑をかけることはできない。もうあなたの帰って これる部屋はないわ。」そう最後通告を告げられていた。
幸運なことに15日梅雨前線が南下し海が穏やかになることを天気予報は告げていた。
「15日、これが最後のチャレンジだな。」そう2人で話し合った。

7月14日。巡り合せとは本当に不思議なものだ。今思い出すと海の神様が僕達の運命を導くかのようにこの日まで対馬にとどまらせてくれたと思えてしょうがない。

週明けに韓国税関との交渉を再開するという約束通りライオンハートさんから再び電話がかかってきた。
「日本の税関で出されている書類を至急韓国のほうへファックスで送って欲しい。」
出入国管理局に出向き、出国手続き。旅客名簿や出入国届を税関で作成し指定の番号へファックスを送った。すぐに電話がかかり、なにかが足りないという。英 語でのやりとりなので通関書類などの難しい会話は困難だ。マイクと電話を替わりどうやら税関のスタンプさえあれば良いということなので再び税関へ行きスタ ンプをもらう。心良く追加でスタンプを押してくれた職員に感謝。そして再びファックス。韓国税関でなにかが動いていることは確かだった。
夕方、ライオンハートさんから最後の電話がかかった。
「おめでとう!あなたたちの釜山入港の道は開かれましたよ。」
とうとう許可が出た!手漕ぎのカヤック単独での韓国横断は長くその扉が閉ざされていた。その扉がとうとう開いたのだ。
マイクが韓国海洋警察庁に電話。明日の早朝に釜山に向けて出港する旨を伝えた。
これまでの過剰なほどの日本の海上保安庁の介入に悩まされ続けただけに、韓国税関の許可が出たからといってすんなり韓国海洋庁からも渡航の許可がでるとは思えなかった。しかしその電話口からは驚くべき提案がされていた。
「国境を越えたら我々の船が釜山港コンボイ(伴走警護)しましょう。あとマスコミのクルーが乗り込んであなたたちのことを韓国で報道しても大丈夫ですか?」
事態は勝手に急展開している。どうやら僕達は歓迎されているようだ。なんてこった。今までの苦労は一体なんだったのか。コンボイは必要ない旨、そしてその代わりに2時間ごとに定時連絡を入れることを海洋庁と約束して電話を切った。
正に奇跡が起こったとしかいいようがなかった。これで僕達は強制送還や法廷による裁きを受ける危険性を冒すこともなく胸を張って堂々と韓国を目指すことができる。
僕達は自然と溢れる笑みをこらえることはできなかった。
マイクはガッツポーズをしてなにやら叫んでいる。
「待てば海路の日和あり」
とうとう韓国への横断をチャレンジする日がきたのだ。

Article
0 comment

康司の遠征日誌 18

7月11日、比田勝の支所のパソコンを貸してもらい天気予報チェック。7月13日に再び好天が訪れることを伝えていた。13日の出発に向けて準備を進める。
釜山横断で一番懸念していたことは対馬海流の影響だった。朝鮮半島と対馬の海域はちょうどじょうごのような形をしており僕達が渡る最短距離は最も海流の影 響を受ける区間だ。九州大学がリアルタイムで表層の流速図などを発信しているサイトなのもあったがやはり頼りになるのは現地を知る漁師の情報だ。
比田勝は国境近くまで操業する漁船も多いとのこと。ちょうど漁から戻ってきたらしい漁船があったので声をかける。ちょうど食事中だったのだろう。茶碗を手にして船倉からにゅっと真っ黒に日焼けしたまだ40代くらいの船長が顔を出してくれた。
「実はあさってカヤックで韓国に渡ろうと思っているんです。海流や潮流の影響など教えてもらえませんか?」
「ん~?カヤックで、、、。13日は大潮やぞ。相当流れが速い。」
「どのくらい出そうですか?」
「国境から北は分からんけど満潮から時計回りに回る。海流が重なれば引き潮で北東方向に相当引っ張られるぞ。伴走はおるんやろ。」
「いや、いません。」
「なに!ちょっと船のれ。てっきり漁船を横につけるもんと思うとった。こりゃしっかり教えないかんわい。」
船長はそういって潮汐表を引っ張り出し携帯の天気予報も見ながら熱心に潮周りを教えてくれた。海流もそうだが船長によると潮流の影響と重なるとかなり良くない状況になるという。できるなら小潮を狙ったほうがよいとアドバイスをもらいその場を分かれた。
13日に出るなら横断ルートをもう一度練り直す必要がありそうだった。

脇本さんの経営する食堂に戻ると脇本さんがあわてて僕達に言った。
「茂木浜で会ったあの韓国人のおじさん。あの人が至急電話して欲しいと今電話があったんだよ。なんだか入国のことで話がしたいって!」
正に晴天の霹靂。あの立ち話をしただけのおじさん、ライオンハートと名乗る人から連絡があるなんて思いもしていなかった。ライオンハートさんはアメリカに住んでいたことがあるらしく英語が流暢だ。マイクは指定された電話番号にスカイプで電話をした。
マイクが電話口で話しながら「リアリィ!?」「アメージング!」を連発している。きっと良い知らせだ。胸がドキドキと高揚するのが分かった。ようやく電話を切ったマイクが日本語でいった。「スッゴイ!!」いったい何がすごいのだ、早く言え。
「入国の許可が出そうだってさ!!」「やったぜ!」
僕達は二人でハイタッチをした。まさに絶妙のタイミングだった。ライオンハートさんが何者かは今でもわからない。だけど僕達のために相当奔走してくれているようだった。

しかしその日の夜に僕の電話に国際電話がかかってきた。ハハノさんと名乗る流暢な日本語をしゃべる韓国の女性からだった。
「ライオンハートさんから頼まれて電話しています。あなたたちの入国の手続きはうまくいっていたのですが最後の税関がどうしても許可を出さないようです。カヤック単独では認めないって。カヤックとはヨットのようなものではないのですか?」
僕は落胆した。話は僕達がいままでやってきた答えと一緒だった。船舶登録が必要。書類が欲しいということだ。しかしそれは不可能なのだ。
「ハハノさん、僕達は13日に向かおうと思っています。天候は待ってくれません。」
「もう少し待てませんか?今日は金曜日です。週末に入ります。あと3日待てればまた月曜日に交渉ができます。」
まんじりとしないまま電話を切った。つかの間の歓喜だった。2人は夜道をとぼとぼと歩きながら無言でゲストハウスに戻った。

7月12日。朝からゲストハウスでダラダラと過ごす。梅雨前線が北上してきたようで13日の天候が変わっている。
出国の手続きは韓国からの高速船でやってくる韓国人観光客の手続きが終わる午後2時くらいに指定されている。明日の朝出艇できるかどうか微妙であったが出 入国管理局で出向き出国スタンプを押してもらう。脇本さんの車で佐護シーランドまで送ってもらい艇庫に保管していたカヤックを出して出発準備を進めた。目 の前の海は凪いでいる。明日はどうだろうか?僕たちに残された時間はもう数日しか残っていなかった。

13日早朝。風が向かい風になる北に変わる。雨が夜中降り続き出発時刻の5時になっても雨足が強まってきた。朝から2度も脇本さんは佐護まで来てくれてい た。比田勝から佐護まで40分はかかるのにだ。8時ごろこの日の出艇を取りやめた。脇本さんの車で比田勝まで戻り出入国管理局に出向い出国取りやめのスタ ンプを押してもらう。また帰ってきたのかという表情で迎えられたがしょうがない。カヤックの横断とはこんなものだ。彼等も今後のために知ってもらっていた 方が良い。
韓国が見えるという丘に脇本さんに連れていってもらった。天気が良ければ韓国の山並みや夜には夜景がみえるのだという。どんよりと雲が垂れ込め韓国を目視 することはできない。でもたしかにこの50km先には大陸があるのだ。たった50km。これほど遠いものだとは思わかなった。
マイクが暗い顔をして言った。
「僕達は99%山口に帰ることになりそうだよね。」
後日談だがマイクはこのときこれまでの一年の準備が走馬灯のように駆け巡っていたらしい。いつもポジティブな思考で賑やかなマイクだがこのときばかりは少 し感傷的になっていたのだろう。この遠征の発案や準備の中心を進めてきたのも彼だ。その苦労や重圧も理解できる。しかしそれを決めるのはまだ早い。
「いや俺はそうは思わないよ。まだチャンスはある。」
どこまで待てるか、そして辛抱できるか。海を往くことに関してはそれが成功の鍵だと僕は思っている。

Article
0 comment

康司の遠征日誌 17

7月9日、この夏に行なわれる対馬日韓合同海岸清掃の会議のため「美しい対馬の海ネットワーク」の中心人物である脇本さんが厳原まで行くという。僕達もな にか意見をと同行することになった。ここで「対馬エコツアー」の上野さんと「対馬カヤックス」中澤さんに出会うことになった。実は今回の遠征に使用してい るウォーターフィールドのホエールウオッチャーは対馬カヤックスで使用されていたもので対馬から山口まで送っていただいたものだった。真珠養殖に使われて いたという二人の会社の艇庫は隣接しておりどちらも広々として中にはたくさんのカヤックが保管されていた。浅茅湾でのツアーが中心とのことで穏やかな海域 のツアーはいつも賑わっている。今回は韓国に行くことが目的で浅茅湾を漕ぐ余裕がない。しかし海図を見ただけでもこの湾は面白そうだ。リアス式の自然海岸 が続くこの湾は慣れていてもどこを漕いでいるのかわからなくなるのだという。
夕方に市役所にいき担当職員の人との会議。夜は上野さんの経営するバーに行き酒を飲んだ。カウンターで酒を出しながら上野さんが言った。
「この50年で変わってしまった海を元に戻し次の代に伝えていかなければならないよね。」
同じ想いを共有できるカヤッカーがいる。嬉しかった。
アウトドアで活躍するカイド達は自然のスペシャリストとして自然保護活動にも熱心だと思われがちだが実際はそうでもない。基本的には自分達だけが楽しめば よいといった感じの快楽主義者が大半だ。海が汚れていても浜にゴミが押し寄せていてもその存在を消し僅かに残った美しいものだけをみて幸せになれる。強い ものには逆らわず行政にはまあまあと言って仲良く仕事をして補助金のおこぼれをもらい自己満足。そんな感じだろう。それはガイドだけではなく漁民も農民も そんな具合だからダムは作られ海岸は埋め立てられ挙句の果てには原発も作られる。間違った論理が経済!という大声によってかき消され大手を振って歩いてい る。まだまだヨーロッパの環境政策から20年遅れをとる日本で自然保護を実践するには個人の反抗から始めるしかない。そのどこにも属さない個人の横のつな がりが増えてゆけばそれが強い力となる。動員された人たちは肝心なところで逃げてゆくものだ。
酔いどれの頭で上野さんのいう50年前の対馬の海を想像していた、、、。

翌日も脇本さんの臨時議会のお供をして豊玉へ。有名な和多都美神社に参拝。柱が三本建つ三柱鳥居が面白い。キリスト教の影響もあるようで神社の祭殿にはユ ダヤの六芒星が掲げてある。海神を祭るこの神社とユダヤ。海へと続く鳥居をくぐりながら上陸した対馬の豊玉姫とはいったい何者だったのだろうか。豊玉姫の 墳墓を前にしてそんなことを考えていた。
豊玉からの帰り対馬中央部に位置する上対馬のゴミを集積場を訪ねた。そこは海岸漂着ゴミの集積場にもなっていた。漁師達が仕事として集めたゴミがプラス チックごみや発泡スチロール、流木といった具合に分別して積み上げられている。その広さ東京ドーム一個分といったところか。その広大な敷地にびっしりと屯 袋が積み上げられている。日本海にはゴミが多いと実感していてもそれは浜に散乱するゴミを見ていただけ。しかし集められ集積したゴミの山を目の当たりにす るとさすがに唖然となる。しかも対馬の海岸は少しもきれいになっているとは思えない。実際にはこの何十倍何百倍、いや何千倍のゴミが今も海を漂い海岸に押 し寄せる。プラスチックは船で北九州に送る。一つの屯袋の輸送費は1万円。対馬だけで10億の予算がついている。しかし現状は解決からはまだほど遠いの だ。
集積場の一角に画期的な装置もあった。発砲スチロールの油化装置だ。島内の温泉施設などに使用されるらしいがまだ一日の生産量は70リットル。まだ実験段 階といったところだ。しかしこの装置が進化してプラスチックも同様に油化できるようになればゴミのそれは資源となる。漂着ゴミが資源に変わるのなら人々は 拾い始めるだろう。その前に海に流す行為もなくなるのではないか。希望持てる施設の見学となった。