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康司の遠征日誌 14

対馬・比田勝ではこの旅最大の懸案に対峙しなければならなかった。
それは韓国釜山へのカヤック単独での入港許可を得ることだった。これまでシーカヤックでの釜山入港は何度か行われていたことは聞いていたがそのすべては伴 走船を伴っての横断だったという。対馬の港を出てカヤックを海に下し漕ぎ始め、釜山入港手前でカヤックを伴走船に乗せる。つまりカヤックは伴走船の手荷 物。そしてカヤッカーは伴走船の乗客としての扱いだということだ。その伴走船の手配にかかる費用は75万円。どうあがいてもその出費を賄える見込みは僕達 にはなかった。
実はこの旅を始める半年前にマイク自ら釜山に出掛けカヤック単独での入港について釜山税関と交渉してきていた。その際は口約束ではあるが大丈夫だという回答を得ていたのだ。
もう少し確約が欲しいということで釜山税関に対して正式な許可が欲しいという要請をメールで何度もしていたのだがその後に返信があることはなかった。しかし出発の10日前になって突然釜山税関からメールが送られてきた。
「もしカヤック単独で入る場合は国際船舶法に基づき国際船舶登録をとり通常の船舶と同じように国際港に入港しなければ認めることはできない。」
なにを今更という感もなかったが急いで国際船舶登録について調べた。日本国内では20トン以下の船舶は取ることができないということだった。では世界では どうかと代理店に頼んでその可能性を確かめた。ほとんどの国が駄目だったがパナマとリベリアでは手漕ぎの船もとれるということで動いてもらった。しかし韓 国にカヤックで渡るという行為が危険だという判断で結局国際船舶登録をとることは不可能だということだけが分かった。

日本出国のほうはどうだったかというと、カヤックで出国することに対しての対馬税関の見解は特に問題のないだろうということだった。カヤックは船舶ではな い。なので国際船舶法に準じることもないので船舶登録は必要ない。韓国への3か月の滞在なら入管審査だけで出国できるという判断だった。
つまり日本は出国できるが韓国に入国ができないという悩ましい状況に置かれていたのだ。
まあそんな状況であっても比田勝でいろいろ動けばなんとかなるさと楽観的ではあった。というのもこれまで僕は何度も国境をカヤックで越えているが国際船舶登録など必要なかったという経験則もあった。
しかしいざ韓国への横断を前にするといろいろ不安が出てこないわけではない。許可のないまま入港を試みたらいったいどうなるのであろうか・・・?良くて強制送還、悪くて拘束されて法廷裁判にまで発展するかもしれない。長引いた場合の仕事はそして責任は・・・?
とにかくできる限りの努力はしなければならないと思っていた。

比田勝に到着した翌日の7月2日からは釜山入港の許可を得るために奔走した。
まずは比田勝の三原さんの友人で佐須奈で民宿を開業されたという韓国人のチェさんに直接韓国語で釜山税関と交渉してもらった。話はすぐに通じたが、手漕ぎ の船で韓国に入国する際の法律は存在せず入国はできない。そしてやはり伴走船を雇い乗客と貨物での扱いとして入国するしか選択肢はないとの回答だった。
多少の出費はやむなしと釜山にある通関代理店にも問い合わせてみた。愛想の良い女性がいろいろと手を打ってくれたらしい。しかし答えは「あなたたちは釜山には入港できません。」だった。さすがにマイクもこの言葉には落胆したようだ。

7月3日も4日の各官庁に電話を手当たり次第かけた。福岡の韓国領事館。釜山の日本領事館。そしてマイクはアメリカの大使館へも。そのどれもが「アメリカ 人と日本人ならどちらも観光ビザで入港できるはずです。ただ最終的な決定権は釜山の税関に委ねられます。もしトラブルがあった場合は我々は動きますが、な にもない段階でこちらから税関に働きかけることはありません。」という回答だった。
対馬市議の脇本さんも個人的に動いてくれていた。日韓交流協会や対馬の副市長を通じて釜山市にも働きかけてくれていたが状況が好転することはなかった。
時間だけが無為に過ぎていった・・・。

7月6日に天候が回復して南東の風が吹き釜山に渡るには絶好の日になることを天気予報が伝えていた。南からは季節外れの巨大台風8号が近づいているようだった。
当初は停滞日も含めて2週間あれば十分釜山に到着できるだろうと予測していた。英語教師であるマイクがとってきた休暇は2週間。6日でその2週間目を迎える。もうリミットが近づいていた。6日を逃すと台風の接近で当分海に出ることが難しくなる。
韓国入港の許可はいまだ不透明ではあったが僕たちは6日に出発する準備を進めた。
現地でいろいろ漁師さんに聞き取りをした結果、釜山へ行く場合は比田勝より対馬北端を西に回り込んだ場所にある佐護港から出港するほうが良さそうだった。
対馬北端は浅い海域で潮もはやく海の難所となる場合が多く対馬海流の影響も考えてできるけ西から釜山をめざすという作戦だ。

7月5日、比田勝三宇田ビーチから佐護へ向けて出港。対馬の北端、自衛隊のレーダー基地周辺は北東からの大きなうねりが押し寄せていた。岩礁にしぶきをあげながら打ち付ける複雑な波を交わしながら北端を回り込み佐護シーランドビーチに入港した。

レンタカーで比田勝まで戻り出入国管理局で出港のための書類を作成する。
入出港届・旅客名簿・臨時出入国港指定に関する通知書(佐護からの出発のため)に記入。約30分くらいの簡単な手続きでパスポートにスタンプを押してもらった。
一応これで手続き的には日本を出国したことになる。

台風の接近でずっと南に停滞していた前線がにわかに押し上げられてきているようだった。梅雨時期の天候判断は難しい。風はそうでもなさそうであったが激し い雨が降ること天気予報は伝えていた。逃げ場所のない中で雷雨と遭遇することはとても危険なことだ。雷からはどうあがいても逃げることができないからだ。

日本から韓国までヨットを回航する仕事をしているチェ船長からラインでメッセージが来た。
「本当にくるのですが?とても心配しています。」
チェさんにも出発直前に釜山の税関に今回のカヤック入港の件で直接交渉してもらっていた。そのときも答えは一緒であった。
「どうなるか分かりませんが行こうと思います。渡航のチャンスはそう訪れません。」
「分かりました。決心は固いですね。釜山のヨットチームに連絡して一緒に伴走します。こちらのヨットマン達と一緒に入港すれば少しは税関の対応が変わるかもしれませんので。」
僕達に関わるということはチェさん達も少なからすリスクを負うということだ。
心が震えた。涙が出るほどうれしかった。海の男の心意気とはこういうことなのだ。

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康司の遠征日誌 13

7月1日、対馬グリーンパークから国境の町、比田勝を目指す。
南東の風が吹き追い風で順調に進む。断崖絶壁の海岸線を楽しみながら進む平和なカヤッキングだった。海水は透き通り美しい。しかし岩に海藻がない。磯焼けの影響だろうか。
16:00頃比田勝の北にある美しい白砂の浜、三宇田ビーチに到着した。60kmの行程。ビーチでは韓国の学生だろうか?若い男女がハングル語ではしゃいでいた。浜で遊んでいる大多数の人は韓国人。まるでもう韓国に来てしまったかの錯覚を受ける。
東屋で濡れた装備の片づけなどをしていると黒いスーツを来た二人組の男がニコニコしながらやってきた。新聞記者かなにかと思っていると警察官だった。
海上保安庁から連絡を受けたとのことで取り調べ。後に海上保安官も2人やってきた。こちらは分仏調面。適当に世間話をしていると今度は小太りの男性がヤアヤアとやってきた。
「脇本といいます。対馬市議会議員をしていますが三原さんから連絡があってやってきました。」
ああこの人と知り合いなのかと言った感じで警察官と海上保安官は話もほどほどに帰っていった。
三原さんというのは山口県の大島商船高専の三原名誉教授のことだ。山口では夫婦ともどもお世話になっており三原教授は対馬の出身だったことを妻から知らされてはいた。
しかし出発でゴタゴタしており連絡することをすっかり忘れていた。しかし出発前に朝日新聞と毎日新聞が取り上げてくれたおかげで三原先生の耳にも僕達の話が届いた。そうしてたくさんの対馬の人の知り合いに三原教授自らが既に連絡をしてくれていたということだった。
三原先生のお兄さんも比田勝に在住されており夜は脇本市議と三原先生のお兄さんに招かれ寿司屋での豪勢な夕食となった。
美しい対馬の海ネットワークで活動される二人からはいろいろな対馬の近況が聞くことができた。大陸からの楯のような存在である対馬の海岸の深刻な漂着ゴミ 問題。元寇・倭寇から日露戦争にかけてまでの対馬の歴史。日本の領海の中でも唯一外国との領海争いのない平和な国境線を共有しているのが対馬なのだという 話を聞いて妙に納得してしまった。
韓国の大学生と共同で行う日韓海岸清掃フェスタや、国からの多額の予算を利用して海岸清掃も継続的に行っている。しかし冬の北西風ではるか山の上のほうま で飛んで木々に絡まっている発砲スチロールなどのゴミは手の施しようがないとも。ロート製薬と共同してプラスチックの巨大な油化装置の開発も手掛けている ということだった。
対馬中部の浅茅湾でカヤックツアーの開催している上野さん達も一緒に活動しているということで正に官民共同での取り組みが行われている。それにもかかわら ず膨大な漂着ゴミがまだまだ海岸から消えることはない。ボランティア清掃を行うと、補助金で清掃をする人々から(ゴミの量による歩合制での支払い)ゴミを 拾うなとの要請もあることを聞いた。
後日対馬エコツアーの上野さんから聞いたのだが子供のころは海岸に全くゴミがなかったのだそうだ。この50年間で人間はどれだけ海岸線や海を汚染させてしまったのだろうか。その罪深さを僕達はよく考えなければならない。

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康司の遠征日誌 12

壱岐からは対馬に向けて北に針路をとる。僕達は南風を待っていた。
壱岐勝本はかつての捕鯨の町だ。今もマグロの一本釣りやイカ釣り、曳縄釣りのさかんな漁業の町。手入れの行き届いた漁船が漁港一杯にズラッと並ぶ。生きている漁港の匂いがする。
漁協の壁には「玄海原発再稼働絶対反対」の看板。唐津から近い壱岐ではその意識も高い。自民党支持の漁連だが言いたいことは言う姿勢。いいぞ。さすが島だ。人はみな親切で会話が始まるとなかなか終わらない、そんな退屈しない町だった。
かつてはイルカの追い込み漁をしていたという場所でイルカ保護や観光を目的としたイルカパークという施設がある。島外から来た若い女性たちがイルカの調教や飼育で頑張っている。つかのまの休息がゆったりと過ぎた。サポートメンバーである僕も家族もフェリーでやってきた。

壱岐には結局3日滞在することになった。
6月30日南西の風が吹いた。4時に起床5時15分勝本を出発。再び漕ぎ出す。
斜め後方からの追い波に乗り中盤までは順調に進む。
出発から25km地点くらいから南西への流れを確認する。海流の影響というよりは満潮の潮流の流れの影響を受けているようだ。早いところでは3kmくらいの流れが出ている。
満潮の11時を越えてからは少しづつ北へ針路をとり転流した北東への流れをうまくとらえながら対馬を目指した。
対馬まで残り10km地点くらいから南西の風が強くなり始めた。波長の短いうねりと白波に翻弄されながらも漕ぎ続ける。残り8km地点ほどでようやく水平線に大きく横たわる対馬の島影を確認することができた。
「big island!!」
マイクがそう叫んだ。
16:00頃、沖合から大きな浜が確認できたので上陸する。鶏知湾の対馬グリーンパークという海水浴場だった。
浜で作業をしている人達を見つけてキャンプをしてよいだろうかと尋ねたところ、その人たちは役場の職員だった。福岡から漕いできたという僕達に大層驚いているようだった。
「明日から海開きなんで準備していました。本当はキャンプ禁止なのですがまだ人の少ないので大丈夫でしょう。それより韓国を目指しているなんて凄いニュースです。テレビ局の人を呼んでもいいですか!?」
テントを張りラーメンを食べていると対馬ケーブルテレビの記者さんがカメラを抱えてやってきた。壱岐でも新聞で紹介されたがこういったメディアの影響は大きい。数日後には多くの対馬の島民は僕達が韓国を目指していることを知っていた。

http://youtu.be/kcgVoa_HufI 対馬ケーブルテレビのニュース画像です。

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康司の遠征日誌 11

ここで今回の遠征のための安全装備について明記しておきたい。
海上で外部との連絡をする手段として今回は衛星携帯電話を携行した。携帯電話はソフトバンクを持っていたが海上や諸島部ではほとんど役に立たなかったと いってよい。携帯電話ならドコモが通話範囲が広い。沖ノ島にまで電波塔がたっており漁師や島民はほとんどドコモを使用していた。
あとアメリカなどでは主流になっているサテライトトラッキングシステムの導入も検討した。
Delorm社のinreach2という製品で携帯電話サイズの小さな機器だ。衛星に電波を発信し第三者がパソコンなどから常に所有者の位置を確認できる優れものだ。機械も安価で契約料も手ごろであることから海外からのバックパッカーなど使用している例も多い。
だが国内での使用は電波法に抵触する恐れがあり実際は違法と判断される可能性が高い。
海上保安庁に事前に確認したところ「我々は救助機関でもあるが違法行為の取締機関でもある」との回答だった。つまり違法電波を発見した場合は検挙しますということだ。
今回の遠征の安全装備を検討する際にDolorm社からスポンサーとして製品の提供を受ける話もあったが、そういった国内事情により断念せざると得なかった経緯がある。
このシステムがあれば海上保安庁も容易に僕達の位置を把握できるはずだし、僕達にしても日本国内の高額な機器と契約料を払わずとも安全を確保できる。そもそも国内のイーパブは機器も大きくカヤックには適したものではないし追尾システムとしての機能もない。
どの業界でもそうだがまだ企業の既得権益による権利独占がまだまだ横行している。一刻も早く利用者の立場にたち優れた技術を一般に開放してほしいと思う。

海上保安庁の立場も理解できる。もし本当に海難を起こした際には頼りになる組織であることは確かだ。しかし海旅を行う際に保安庁に連絡するかどうかは今の ところ個人の裁量に任されていうのが現状だ。カヤックというのは法律上、船舶のくくりには入らない。免許もいらないしもちろん今回の遠征のように海外に だって渡っていける道具だ。普段僕が行うツアーでいちいち海上保安庁に連絡することもないが、毎年行っている祝島~小豆島の瀬戸内横断隊では自主的に連絡 はしているが定期連絡までのことはしていない。
今回の遠征については漂着ゴミ問題を世間に広めるという社会的意義もあり新聞などにも紹介された。そういったこともあり事前に海上保安庁には計画書を提出していた。
しかし出発当日まで特になんの指導もなく角島漁協の連絡により急な介入が始まった。角島漁協の連絡がなかったら彼らはどうしていたのだろうか。
「知ったからには」と彼らは言う。知っていたのになんの対策もとらなかったら何かあったときの責任問題に発展する。「1%でも危険があれば我々は動きます」と彼らは言うがそれは誰のためだろう?これほど安全な国もないかもしれないが、逆に幼稚な思考とも受け取れる。
アラスカを旅した際、国立公園局のレンジャーが旅行計画書を提出してほしいと言ってきたことがある。「何のために?」と聞いたところ「君がもし死んだら捜 索して日本まで送らなきゃならない。そのためさ。」とサラリと答えた。この旅は完全に自己責任なのだと改めて気持ちが引き締まった。
日本という国は自己責任という言葉を許さない。
記憶に新しい辛坊さんのヨットでの太平洋横断失敗に対しては日本中からのバッシングがあった。海やヨットを知らない人々が物知り顔で評価する。果てや冒険に関係のない過去の発言やパーソナリティーに対する悪口までごちゃまぜだ。
いろんな思惑がこの冒険にあったことは理解できる。だが、まずは盲目のセイラ―とともにチャレンジしようとしたその勇気をたたえるべきではないか。批評はそれからだ。
僕が以前ラジオのパーソナリティをしていたときだ。若者が広島の雪山バックカントリーに入り遭難騒ぎを起こした。彼らは持参した食料で飢えをしのぎ小屋を見つけて暖をとり自力で下山してきた。新聞で報道されたのは知事の前で頭を下げて謝罪するそのグループの写真だった。
「よく生きて帰ってきた。堂々と胸を張って帰ってきたらよい。」
そうラジオで発言したところ
「どれだけの人に迷惑をかけたと思っているのだ。若者の無謀な行為が多すぎる!」
と反論のメールがたくさん来た。

無謀な行為と冒険はどこに線引きされるのだろうか。ほとんどの人はその意味さえも分かっていないのではないか。目に見える結果がすべてなのだろう。その背後にあることを想像することもできない。
1%の危険を冒すことのできない日本。そんな社会環境では新たなチャレンジ精神は生まれない。リスクのない冒険などない。リスクや危険と対峙するからこそ 人は考え乗り越えようと努力する。その壁を乗り越えるときにこそ魂はいきいきと輝き人は成長していくのだ。冒険やチャレンジを応援し後押しできる世の中。 それこそが子供達が輝ける未来だと僕は思う。

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康司の遠征日誌 10

「冗談でしょ。この通り僕たちはピンピンしていますよ!」
「定期連絡がなかったようで、本部のほうから救難命令が出ています。」
最後に連絡したのは午前10時。そうだった、海上保安庁のほうは4時間おきの定時連絡をするようにと僕たちに要請していたのだった。
しかしこの定時連絡については事前に一悶着があったことも事実だ。カヤックという特性上、パドルから手が離せず電話ができない場合もある。緊急のためにも 携帯衛星電話のバッテリーの消費も抑えたいので4時間おきは努力はするが約束はできないと伝えていた。緊急の場合はこちらから連絡するとも。
上空からは爆音をあげて双発のプロペラ機が旋回しはじめた。
「もしかするとこの飛行機も僕たちを捜索するため?」
船上の海上保安官は大きくうなずいた。なんてこった。。。
とくかく福岡の海上保安本部のほうへ電話してほしいということなのでカヤックの上から電話をかけた。
「なぜ本部の方へ定期連絡を入れないのか!」
電話先からは名前も名乗らない高圧的な態度の男が突然そう言い放った。
「海域の管轄が変わったから良かれと思い福岡海上保安部のほうへ定期連絡を入れたのですよ。」
「約束した時間に定期連絡がなかったじゃないか!」
「こちらとしては約束した記憶はありません。昼前にした連絡でも今日は完璧な天候で問題はない。壱岐に近づいてきたら連絡すると伝えていたはずです。」
「そんな報告は聞いていない!」
明らかに喧嘩腰である。お前たちは重大な過ちを犯したのだぞ。こんな騒ぎを起こしたのだからもうこの遠征を中止しなければならないぞといわんばかりの口調だった。
「とくかく僕は救助要請をした覚えもない。こんなことになるのなら今後定期連絡も一切行わない!」
僕はそういって電話を切った。
僕達は憮然として再びパドリングを始めた。しばらくの間巡視艇は僕たちの後ろをついてきたがそのうち壱岐にある母港へと帰って行った。

壱岐の北岸は美しかった。断崖絶壁の切り立った海岸線と透き通るように深い底まで見える美しい海。毛羽立った心がゆっくりと落ち着いてくるのが分かる。壱 岐北端の小さな島に囲まれた天然の良港勝本に入る。整備されたキャンプ場をみつけ上陸した。人間の都合はともかく僕たちは最初の横断を無事の終えることが できたのだ。まずはそのことを喜ぼう。