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康司の遠征日誌 9

サポート船の可能性はなくなった。沖ノ島~対馬ルートを行く場合はまた海上保安庁とのやりとりがまた難儀な問題となりそうだった。
宗像大社からも沖ノ島の上陸許可を頂いていただけに行ってみたい島の一つだったがここはまた別の機会とすることにした。
残るルートは一つ。壱岐~対馬~韓国ルートだった。室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本に派遣された外交使節団であった朝鮮通信使の船団もこのルートを通って行き来している。いわば韓国にわたるためのスタンダードコースだ。

佐賀の唐津あたりから壱岐を目指すのが距離も近くもっとも安全ルートかもしれなかったが、角島~沖ノ島の横断失敗をしている僕たちにとってはそれを取り戻 す強烈なカウンターパンチが欲しかった。先には更に難しくなる対馬への横断と韓国への横断を控えている。海流の影響の比較的少ない玄界灘横断を避けては先 の横断に対する自信をつけることはできない。地図で距離を計測すると宗像から壱岐北端までは70kmオーバーの横断になる。明日の天候を考えてもチャレン ジしない選択肢はなかった。

道の駅むなかた横を流れる釣川河口に良い浜があった。駐車場にテントを張って早朝の出発に備えた。しかし薄暗くなってから判明したのだがそこは若いカップ ルのデートスポットだった。駐車場には車が増え、浜では打ち上げ花火が次々にあげられる。これはたまらんと対岸に移動して松林の中に隠れるようにしてテン トを張った。時折バリバリと音をたててバイクが走り去ったがなんとか眠りにつくことができた。

朝3時45分起床。朝食を食べて出発したのは5時15分だった。
今日も梅雨独特の低くたれこめたような空。霧がうっすらと世界を包み見通しは悪い。微風追い風、完璧なコンディションだ。
たくさんの船舶が周囲を航行しているのだろう。方々からいろんな種類のディーゼルエンジン音が聞こえてきた。
時速7kmくらいで順調に西に向かって漕ぎ進んだ。1時間に一回、5分程度の休憩をとりながらのパドリング。
午後1時ごろ小呂島を視界にとらえ通過。ほぼ予定通りのルートと時間だ。
南西からの流れに押されているときもあれば西からの流れに押し戻されているときもあった。海流よりは潮流の影響のほうが強いようだ。
午後4時頃、巨大な壱岐の島影をようやくとらえることができた。
そんなときだ。聞きなれた重低音のディーゼルエンジンの音が聞こえてきた。
海上保安庁の巡視艇だ。まっすぐに僕たちのほうへ向かってやってきたかと思うとスピーカーからは停船命令の指示。
何事だろうと待っていると甲板の先端にたった海上保安官が僕たちに向かってこういった。
「海難が起きたとみなして貴船を捜索しておりました!」
「なんだって!?」

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康司の遠征日誌 8

今回の遠征の中で僕が心配していたのが西から東へ流れる対馬海流の影響だ。
今回の角島~沖ノ島間はその対馬海流に真向いに向かっていくことになる。初日の失敗は海流に加えて西風の影響も大きかった。海流も沖合の早い場所では2 ノット程度は流れていることが分かった。沖ノ島横断の成功の鍵は良い東風が吹くことだということは体で経験した。ただあまり強く吹けば波の力と相反して危 険な3角波地帯となることもある。
僕は2つの選択肢を示した。一つは角島の出発にこだわり東風を吹くのを待つか。二つ目は出発地を移動して韓国到達を最優先してルートどりをするかであった。
難しい選択だった。
角島はマイクがビーチクリーンを続けるシンボリックな場所だ。こだわりたい気持ちは充分にわかったが僕にもマイクにも遠征に充てられる時間はそう多くなかった。
僕たちは韓国到達を第一の目標にして出発地を変更することに決めた。

6月25日、福岡県宗像市まで車を走らせた。角島からカヤックで宗像まで移動することも考えたが翌26日が最高の海況となる予報が出ていた。どのルートをとるとしても海況横断には最高の天候となるためその日を沿岸航海にあてるのは惜しかったという理由もある。
宗像へ移動する途中に門司にある第七管区海上保安本部に立ち寄った。もし来れるなら来てほしいという要請とこれから先の海の情報を仕入れる目的もあった。
「正直驚きました。」
若いころは海猿だったという鋭い目力をした海上保安官がそう切り出した。
というのも僕たちが引き返す選択をするとは思っていなかったというのだ。
「無謀なチャレンジだと思っていました。だけど引き返す勇気をもっておられた。安心しましたよ。」
「死にたくないですからね。。。」
そう談笑しているとその上司らしい保安官がドンと資料と持ってきた。
「これがあなたたちが行こうとしているルートです。」
それは関門海峡から中国や韓国へ向かう船舶のレーダー航跡図たった。海路は真っ赤に染まった状態で相当数の船舶の往来があること示してる。
「あなたたちが行くとしているルートは非常に交通量の多い海域です。カヤック単独で行くことはとても無謀で容認できません。」
あぁ、また始まったと思った。
「僕たちはこのチャレンジを諦める気はないし、海上保安庁にそれを止める権限もないはずです。」
「もし沖の島~対馬を目指すならサポート船を必ずつけてください。あなたたちの安全を考えての指導です。」
僕たちの安全というよりは何かあったときの自分達の責任問題を考えているのではないかと思ったが口には出さなかった。
結局、海の情報部にも入手したかった対馬海流の流速図はなかった。エンジン船が主流の今は2ノットの海流など考慮する必要もなくなったのだろう。

宗像の鐘崎漁港に向かった。ここから北へ50kmに沖ノ島を望む。沖ノ島に向かう最適な場所だ。海上保安庁との話合いを無視するわけにもいかず駄目元で あったがサポート船の可能性をさぐるためだ。鐘崎漁港の組合長はとても親切で複数の漁師にあたってくれたが答えはNOであった。唯一話を聞いてくれた遊漁 船の船長から提示された額は対馬まで20万円という金額だった。もちろんそれは妥当な額ではあったが僕たちの資金にそれだけ捻出する余裕もないしましてや サポート船をつける重要性も感じていなかった。

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康司の遠征日誌 7

午前5時、出発の準備がすべて整ってから海上保安庁に連絡した。
「たったいまから沖ノ島へ向けて出発します。」
「やはり行くのですね。4時間に一度の定期連絡は必ず入れてください。お願いします。」
電話口から聞こえてくる声は半ばあきらめ感が漂っていた。
30人くらいは応援に駆け付けてくれていただろうか。手を振りながら陸をけった。
カヤックは海に吸い込まれるようにして進んだ。陸が遠くなり声が消えていった。
見えない島を目指していく高揚感とそして恐怖。そんな感情を静かに押し消すかのようにパドルを規則正しく回す。天気は曇り、西風の微風向かい風。梅雨独特の低く垂れこめた雲の下を順調に進んだ。
2時間も漕ぐと周囲から陸地は全く見えなくなった。灰色の空と海が一体化しまるで出口のない世界を漕いでいるような気持ちになる。僕は漕いでいる際はあま り言葉を発しない。風や遠くの雲や海を凝視し変化に気を配ることに集中する。周りに陸地が見えなくなるとGPSの情報が頼りになる。航行スピードを常に チェックしながら漕ぎ続けた。
対してマイクはいつもにぎやかだ。思ったことをすぐに口に出して同意を求める。マイクにとっては陸の見えないカヤッキングは初めての経験だ。とてもエキサイティングだと興奮して漕いでいく。
雨雲がいくつも発生して僕たちを雨粒がたたいた。雨の海もそれは幻想的ではあるのだが雷は怖い。幸いにして雷鳴は聞こえなかったがもし雷が発生したらカヤックは格好の標的となることだろう。
雨をやり過ごすと、にわかに向かい風が強くなり始めていた。それに加えてGPSの速度が5km前後しか表示しなくなっていた。僕たちの標準スピードは7~8km毎時前後。海流の影響を受け始めてるということだ。
真向いからのうねりにカヤックが叩かれ始めた。バシンバシンと波を越すごとにカヤックは上下動する。スピードも5km毎時を切り始めた。
午前11時。6時間漕いで24kmしか進んでいないことをGPSで確認。休憩して手を休めると時速3kmくらいの速さで押し戻される。海流も相当強くいく手を阻んでいるようだ。
当初の予定では沖ノ島到着までの所要時間は12時間を予定していた。予定は相当遅れていた。風は次第に強まり、波の波頭には白波が見え始めた。このまま進 めば到着は真夜中だ。この不安定な天気の中、小さな沖ノ島を目指すことは危険だった。万が一島をロストすれば事態は最悪だ。もちろん夜間航行の準備はして いる。でもそれはエマジェンシー(緊急事態)のための準備だ。エスケープの選択肢が残っている中での予定からの逸脱は無謀だというのが僕の経験測だ。
「引き返そう。」
マイクにそう伝えるとそれは晴天の霹靂だったようだ。
「なぜだ。俺たちはまだ進める。」
「無謀だ。予定から遅れすぎだ。」
ナビゲーションは僕の担当。今のスピードと航行距離、これからの見通しや天候などを2人でよく話し合う。マイクも納得してくれた。これからは常に状況を共有しながら漕がなければいけないなと反省した。
携帯衛星電話で海上保安庁に定期連絡。引き返すことを伝えると逆に「どうして?」といった反応だったのが面白かった。カヤックの目線とエンジン船の目線は違うのだ。自然のパワーには逆らえない。
11時30頃、カヤックのバウを角島に向けた。
追い波、追い風、追い潮でカヤックは飛ぶように戻っていった。マイクは慣れない外洋のうねりと新調したシートクッションが合わなかったようでひどい船酔い になってしまった。でも一番の原因は寝不足だろう。何度も吐きながらもなんとか態勢を保っている。これも良い経験になるだろう。
行きは6時間半かかった行程を3時間半で戻ってきた。
朝あれだけ賑わっていたビーチは静けさを取り戻していた。いいぞ。
「さて、これからが始まりな。」
僕は心の中でそう呟いていた。

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康司の遠征日誌 6

マイクとの合同トレーニングは続けていたが天候不順などによりなかなか長距離パドリングを行うことはできなかった。角島から最初の島である沖の島まで 70km、沖ノ島から対馬までも70km。外洋であること、そして海流の影響も考えると穏やかな瀬戸内では100kmくらい漕げる漕力が必要だと僕は考え ていた。
6月1日にようやく77kmのトレーニングを達成したがまだ漕力が足りないと感じていた。
しかし出発の日は少しづつ近づいていた。
角島を発つ日を6月24日に決定した。梅雨の真っただ中となるが停滞前線の位置次第では凪の日も多い。もちろん梅雨明けに行く選択肢もあったがガイドの繁忙期にあまりずれ込むのも問題だし真夏の無風の海を行くことは熱中症の危険もある。ここ最近の夏の日差しは殺人的だ。
77kmを漕いだあとには2人でのトレーニングを行う日には恵まれず出発を迎えた。

6月23日に出発地となる角島に移動した。翌日の出艇地は観光客の少ない島の北側のビーチが良さそうだった。通常は遊泳禁止となっている場所だけに角島漁協に出艇のお願いに出向いた。
今から韓国にシーカヤックで渡るのだという僕たちに対して組合長は目をまるくして驚いていた。
「浜を使うのは問題ない。だけど韓国に行くような危険な行為に対して責任は持てないし関わりたくない。」
もちろん漁協に対してなにかやってもらおうとか責任を持ってもらうようなことはなにもないが困ったことにこの組合長は海上保安庁に連絡をしてしまった。
対馬海上保安部と仙崎海上保安部には事前に今回の旅行計画書をFAXして知らせてある。なんの問題もないと思っていたがどうやら僕たちの遠征計画は第七管区海上保安本部のほうにはうまく伝わっていなかったようだ。
「角島漁協から連絡を頂きました。あなたたちがしようとしていることは漁師さんも反対するほどの危険な行為なのです。よく考えて出発を取りやめて欲しいです。」
「僕たちは入念に準備を進めてきました。決して無謀なチャレンジではありません。」
電話口から聞こえてくる海上保安官の声が少しづつ荒くなってくる。
「なにかあったらどうするのですか!責任はだれがとるのでしょうか!」
「これは個人の私的なチャレンジです。責任は私自身がとります。」
「あなたたちが遭難すれば私達は出動しなければなりません。社会的責任はどうするのですか!ヨットで遭難した辛坊さんの例をご存じですか!」
「社会的責任をとるという意味がよく分かりませんがシーカヤックが私の生業です。もちろんそういった意味では社会的責任が発生すると思いますし仕事を失うことになるかも知れません。」
「家族は了解しているのですか?」
「サポートメンバーで参加しています。」
「安全装備は!?」
といったやりとりが延々と続く。一人が根負けして電話を切るとまた次の上司らしい人から電話がかかると言った具合に同じ話を何度くりかえしただろうか。
とにかく行かせたくないらしいので
「分かりました。とにかく、まだ行くとは決めていません。明日の朝また決定します。」
とかわして難を逃れた。
メモ帳には明日欄楽しなければならない海上保安庁の番号がびっしりと書き込まれていた。

僕は海に出る前は静かに過ごしたいタイプだ。風の音に耳をすませ海の波長に心を合わせる。海と体を早くフィットさせたいからだ。
しかし僕の愉快な友人・知人たちはそんなささやかなわがままを許してくれるはずもなかった。
夕暮れからキャンプ地に続々と集まって来るや否や酒盛りが始まり僕たちの応援だったはずがいつのまにやら久々に出会う同窓会のようになり宴会は盛り上がっていく。
翌日は3時起きの5時出発を予定していた。7時には就寝するつもりがテントに入ったのは12時。興奮してかにぎやかな声がうるさかったのか3時の目覚ましが鳴るまでほとんど眠りにつくことはできなかった。
まだ暗い中、出艇場所の浜で準備しているとマイクのファンらしい若い女子達もたくさん集まってきており集中どころではない。海気に集中するどころか雑念が 入りまくりだ。もうまるで動物園のサルのような気分である。マイクは愛想を振りまいていたが僕は憮然とした態度で準備を進めるのであった。

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康司の遠征日誌 5

〈余談〉
2013年のシーカヤックガイドの仕事も落ち着いてきた10月の後半、思いがけない事故をしてしまった。
夜道を歩いている最中に川に転落し顔面骨折、中心性脊髄損傷という大けがを負ってしまったのだ。
次女が生まれて3日後に、出産した同じ病院に緊急搬送されたのだから今となってはお笑いとしかいいようがない。
医者に親族を呼んでくれといわれたので「この病院にいます。」と答えたところ「お父さんこの大事な時期になにをしてるのですか!」と看護婦に叱られてしまった、、、。

幸い上半身のしびれだけで症状の悪化はなかったのだか2週間後に控えた瀬戸内横断隊も断念せざるを得なかった。隊長としての最初の仕事ができなかったことは今でも無念だ。

思えば2013年は本厄の年だった。年の初めに金毘羅さんに厄払いをしに行ったのだが効果はなかったのだろうか?それともこの程度のけがで済んだと感謝す べきだろうか?金毘羅さんの本殿に続く長い階段の最上階に位置する最も大きな石碑(寄付の額が多い順)にはずら~と「大成建設」「清水建設」「五洋建設」 などなど海の建設会社の名前が連ねていた。僕が戦ってきた企業ばかりなので、もしかするとご利益ないかな?などと冗談で妻と話していたことを思い出してい た。

退院してしばらく自宅療養していたところ、怪我の噂を聞いたマイクは飛んでやってきた。
「僕にできることがあったら何でも言って欲しい」
本当にお人よしで優しい男だ。僕が遠征に参加できるか心配しながらも何度も差し入れを持ってやってきた。
白人でありながらアジア人のような気の遣いようと繊細さ。心配しながらも僕を信じて個人でトレーニングを積むマイクを見ながら、早く全快して安心させねばという気持ちにもなった。

しかし首に不安を抱えたまま2014年新年を迎え、ようやく海に出れたのは怪我から3ヶ月後の1月31日だった。これが初めてのダブル艇でのマイクとの合同トレーニングとなった。
遠征まで5か月をすでに切っていた。