Article
0 comment

康司の遠征日誌 7

午前5時、出発の準備がすべて整ってから海上保安庁に連絡した。
「たったいまから沖ノ島へ向けて出発します。」
「やはり行くのですね。4時間に一度の定期連絡は必ず入れてください。お願いします。」
電話口から聞こえてくる声は半ばあきらめ感が漂っていた。
30人くらいは応援に駆け付けてくれていただろうか。手を振りながら陸をけった。
カヤックは海に吸い込まれるようにして進んだ。陸が遠くなり声が消えていった。
見えない島を目指していく高揚感とそして恐怖。そんな感情を静かに押し消すかのようにパドルを規則正しく回す。天気は曇り、西風の微風向かい風。梅雨独特の低く垂れこめた雲の下を順調に進んだ。
2時間も漕ぐと周囲から陸地は全く見えなくなった。灰色の空と海が一体化しまるで出口のない世界を漕いでいるような気持ちになる。僕は漕いでいる際はあま り言葉を発しない。風や遠くの雲や海を凝視し変化に気を配ることに集中する。周りに陸地が見えなくなるとGPSの情報が頼りになる。航行スピードを常に チェックしながら漕ぎ続けた。
対してマイクはいつもにぎやかだ。思ったことをすぐに口に出して同意を求める。マイクにとっては陸の見えないカヤッキングは初めての経験だ。とてもエキサイティングだと興奮して漕いでいく。
雨雲がいくつも発生して僕たちを雨粒がたたいた。雨の海もそれは幻想的ではあるのだが雷は怖い。幸いにして雷鳴は聞こえなかったがもし雷が発生したらカヤックは格好の標的となることだろう。
雨をやり過ごすと、にわかに向かい風が強くなり始めていた。それに加えてGPSの速度が5km前後しか表示しなくなっていた。僕たちの標準スピードは7~8km毎時前後。海流の影響を受け始めてるということだ。
真向いからのうねりにカヤックが叩かれ始めた。バシンバシンと波を越すごとにカヤックは上下動する。スピードも5km毎時を切り始めた。
午前11時。6時間漕いで24kmしか進んでいないことをGPSで確認。休憩して手を休めると時速3kmくらいの速さで押し戻される。海流も相当強くいく手を阻んでいるようだ。
当初の予定では沖ノ島到着までの所要時間は12時間を予定していた。予定は相当遅れていた。風は次第に強まり、波の波頭には白波が見え始めた。このまま進 めば到着は真夜中だ。この不安定な天気の中、小さな沖ノ島を目指すことは危険だった。万が一島をロストすれば事態は最悪だ。もちろん夜間航行の準備はして いる。でもそれはエマジェンシー(緊急事態)のための準備だ。エスケープの選択肢が残っている中での予定からの逸脱は無謀だというのが僕の経験測だ。
「引き返そう。」
マイクにそう伝えるとそれは晴天の霹靂だったようだ。
「なぜだ。俺たちはまだ進める。」
「無謀だ。予定から遅れすぎだ。」
ナビゲーションは僕の担当。今のスピードと航行距離、これからの見通しや天候などを2人でよく話し合う。マイクも納得してくれた。これからは常に状況を共有しながら漕がなければいけないなと反省した。
携帯衛星電話で海上保安庁に定期連絡。引き返すことを伝えると逆に「どうして?」といった反応だったのが面白かった。カヤックの目線とエンジン船の目線は違うのだ。自然のパワーには逆らえない。
11時30頃、カヤックのバウを角島に向けた。
追い波、追い風、追い潮でカヤックは飛ぶように戻っていった。マイクは慣れない外洋のうねりと新調したシートクッションが合わなかったようでひどい船酔い になってしまった。でも一番の原因は寝不足だろう。何度も吐きながらもなんとか態勢を保っている。これも良い経験になるだろう。
行きは6時間半かかった行程を3時間半で戻ってきた。
朝あれだけ賑わっていたビーチは静けさを取り戻していた。いいぞ。
「さて、これからが始まりな。」
僕は心の中でそう呟いていた。

Leave a Reply

Required fields are marked *.